人生の分かれ道

#1

たられば話、大好き。「もし今高校生だったら、この大学を選ぶだろう」「もし中学生だったら、こういう活動をしたい」。絶対に戻りっこないのに、定期的に想像を思う存分飛ばして、違う自分をイメージする。今よりももっと良い生き方に想像を膨らませて、その後今の自分に戻ってきて虚無を感じる。

でも、あと10年したら、まさに今が「もし〜〜だったら」と振り返る大きなターニングポイントであることは間違いない。

就活か、院進か、それとも。

今までずっと、敷かれたレールに乗って来たし、それを疑うことすら思いつかなかった。
でも、やっとレール以外の道を知ることができた。否。強制的に考えされられた。


そもそも自分って誰だ

・12歳まで

地域の子と仲が良かった覚えはほとんどない。
幼稚園では、いつも昼休みを過ぎると、なぜか親が車に迎えにきてどこか知らないところに連れられる。そこでは、図工をしたり、シーソーに乗っている荷物の重さを比べてどっちが重い?みたいな問題ばかり解かされた。家に帰ってからも、ホワイトボードに貼ってある図形のパターンや単語をいつも見ていた。
数ヶ月に一度ある、長丁場のテスト。ほぼ成績優秀者だった。自分の名前が載った順位表を何枚も持っていた。「自分はみんなと違う、特別なことをしている」「みんなよりもできるんだ」と、無意識的に自信がついていった。意識していなかったけれど、幼稚園の子を見下すようになっていたのかも。
年長では、幼稚園で仲がいい子はほとんどいなくなった。昼休みは、先生が掃除しているのを眺めていた。手伝います、と言っても、外で遊んできなよと返された。遊ぶ人がいないから、先生のところにいるのに。一刻も早く家に帰りたかった。
寒さが増すにつれて、おめかしして外に行くことが多かった。別に遊園地や買い物をするわけではなく、今までやった脳トレみたいな問題を解かされた。ひたすら暗唱した文章を大人の人の前で発表した。

時が過ぎ、私は地域の子が通わない別の小学校に通うことになった。別に疑うこともなかった。電車で毎日一人で登校。周りの親は教授とか、お医者さんとか、弁護士ばかり。それに比べて私の家は...と劣等感をいつからか持つようになっていた。

「〇〇ちゃん、なんでこんなことも知らないの」こんなこと、初めて言われた。だって、知らないんだからしょうがないじゃない。
「お前に言われたくない。」滑り台で遊んでいる小六の「お姉様」に、座った目で言われた。一瞬で目が熱くなって、心がぎゅっと縮んだ。
「金魚の餌やり、返却なしね」授業中、ずっとコソコソしてるなと思ったら、グループの全員から言われた。

自分の何が悪かったのか、今では痛いくらいわかるけれど、当時はわからなかった。やっぱり友達はできなかった。私には、あだ名がなかった。ものを投げられたり、隠されたりしたことは一回もないけれど、私の場所はないよと言われているような気がした。15分の中休みが一番嫌いだった。

それでも、目立ちたい、人と違うことがしたいという願望はあり、他の人がしなさそうなことをしてみた。それなりに、やる理由は自分の中にあった。結果的にもっと裏目に出た。
国語の授業の意味調べを丁寧にやった。助詞まで調べていたら宿題が全然終わらなかった。
ダンスをしっかりやったら、後で悪目立ちしていた。
コンプレックスがあってマスクをずっとし続けていたら、もう手放せなくなってしまった。
どうして、普通のことができないの?

もう自分にほとほとうんざりしていたし、自分のことが嫌いだった。でも、自分の意志で環境は変えることはできなかったし、何よりも親が許さなかった。「あんだけ苦労して入れたのに」。親は、私が大学受験で推薦を取ることを目指して、小学校受験をさせたようだった。

 

・中高

中高に入ったら、周りと自分を差別化すること、周りより優位に立ちたいという思いが加速した。幼稚園から芽生えていた思いと、「自分がすごくなったら周りが認めてくれる」というお子ちゃまな考えが、私をますます尖らせた。ここに書くのが憚れるほど、私はあからさまにひどい差別をしていた。「周りより優位になりたい」という思いが、コミュニティをよくしようという思いよりも常に優先した。自分より才能があったり、カーストの上にいたりする子を見ると、「でもあの子は...」と粗探しをして、薄っぺらい満足感で満たしていた。

勉強ももちろん頑張った。私の学校では、定期試験後に順位表が配られていた。自分と平均点の比べっこをして、歪んだ自信をつけていた。

中学校3年に上がるタイミングでも、自分にあったコミュニティを見つけることもできなかった。自分がそろそろ人よりも優れているのではなく、規格外であるということも自覚していた。しかし、ここでも、高校受験をする選択肢は与えられていなかった。

高校に入り、勉強に本気で力を入れるようになった。勉強ができることで、自我をなんとか保っていた。文系、理系も関係なく、ひたすら詰め込み勉強をして、高得点をとっていた。大学受験も当然するものだと思っていたので、塾にもたくさん通った。どれだけ頑張っても、上には上がいたけれど、塾のクラス分け試験で上のクラスに入った時は、人生で1,2を争うくらい嬉しかった。

高校3年生で通った塾の同じクラスには、当たり前のように勉強ができて、教養がある人しかいなかった(私は、当時教養とは知識を持っていることと、配慮を持っている人のことだと思っていた)。劣等感しか感じなかったが、彼らと話すことによって、ここにいる人の繋がりが大きな価値になるということを感じていた。ここでも、「自分はこんな人と繋がりがあるんだからすごいんだ」という思いを持って過ごしていたものの、コミュニティそれ自体を楽しんでいた。断片的な知識という点と点が繋がり、線になり、奥行きを持つ過程を見ることができた。

高校3年生9月。
勉強は不純なモチベーションで頑張っていたので、内申点は良かった。親が強く希望していた大学の薬学部にも、そのまま推薦状を出せば通ることはわかっていた。ただ、私はここで強い違和感を感じた。「私は、このままでいいのだろうか?」

環境が変わるチャンスがあるたびに、私は外に逃げ出そうとして、留まった。それは、大学で推薦を取ることを親が希望していたから。ここで推薦を受け取らなかったら、私は親の全ての思いを無駄にしてしまう。薬学部に行けば、将来必ず仕事に就ける、結婚や出産があっても安定した収入が得られる、いいことしかないと親は勧めてきた。大学も、私の今にもはち切れそうな虚栄心を満たすのにも十分だった。しかし、親の言うままに推薦願届けを出し、「あなたは推薦に選ばれました」と言われた瞬間、本当に目の前がくらっとした。訳のわからない感情から、涙が溢れた。

私は、他人の希望通りになるために、生きるのだろうか?
どうして、小さい頃から他人によって選択肢が決められていたのだろうか?
自分の社会的立場を守るために、生きるのだろうか?
安定だけが、人生において重要なのか?
これが、私に与えられた、レールを切り替えるためのラストチャンスかもしれない。

私は、少し違和感を感じれば、人から勧めれれば勧められるほどそれから遠ざかってしまう。何度も勧められた結果、私の心は薬学部からは完全に離れていった。

私はその推薦を辞退することにした。ここでもまた「普通ではない」選択をしてしまった。
親は子どもみたいにわんわん泣いていた。すごく責められた。私も自分の意思決定をどう解釈すればいいのかわからなくて、泣きたかった。その時に書いた日記を読むと、スッキリしたと同時に、今後に対する強い不安が綴られていた。

推薦がなくなったからには、一般受験をしなければならない。
変な虚栄心がにゅっと出てきて、推薦よりもいい大学に行かなければならないと暗示がかかってしまった。親も、それ以外は許さなかった。

9月から入試までは、狂ったように勉強をしていた。噴き出てくる感情に蓋をするように、ひたすらシャープペンを走らせていた。この時は、なんで大学にいくのか、なんで自分が勉強をしているのか疑問に思う暇もなかった。とりあえず生物系に興味ある、細かいことは大学に入ってから決めればいい、と腹を括って、入学後に専攻が決められる大学を選んだ。

 

まさか入るとは思っていなかった。遊びで出した模試の結果はDかE判定。高校から毎年数名しか行かない(多くは成績が十分でも、医学部か、薬学部に行ってしまう)。高三の塾で同じだった子も、本気で目指すようなところだった。私は、本気で目指していなかったのに、まさか入るなんて。受かったのを聞いたとき、戸惑いとモヤモヤ、「これからどうしよう」という感情が混ざって重くのしかかってきた。ここでも、「私は他の人とはやっぱり違うんだ」という恥ずかしい幻想を見た。
はからずしも、「いい大学に行ってほしい」という親の希望に応えたことになり、再び王道のレールに戻されることになった。自分で選んだという点だけ、今までとはちょっと違っていた。

 

[続く]